ベラルーシの国営テレビは2024年9月4日「日本の情報機関員が拘束された」と報じました。
容疑は「ベラルーシ軍の施設や配置などについて情報を収集し、日本の情報機関に送った」。
いわゆるスパイ行為です。
これにつき在ベラルーシ日本大使館は、今年7月に五十代の日本人男性が拘束されたことを認めました。
(情報機関員であることやスパイ行為まで認めたわけではありません)
私は情報機関公安調査庁の元キャリア職員。
本稿では、その目から当事件を眺めて思ったことをつらつら書き流してみます。
序 日テレの抱いた2つのナゾと私の抱いた2つのナゾ
本件拘束につき、日テレが「摘発瞬間映像も…ベラルーシ、拘束された日本人男性に関する「特別番組」を放送 深まるナゾ」という見出しで報じています。
記事内ではナゾが2つ挙げられています。
- 日本人男性の連絡を取り合っていた人物が情報機関との関係を否定していること。
- ベラルーシの番組における翻訳がめちゃめちゃであること。
ナゾの1つについては断じきれません。
同人の述べる通り、本当に関係ないのかもしれません。
一方、どこかの機関と繋がっていたとして「そうだ」とは絶対に言えないはずです。
しかしもう1つについてはまさしくナゾです。
記事中に画像と翻訳がありますが、暗号?と思うくらいめちゃめちゃ。
捏造と呼んでも差し支えありません。
そして私から見ると、本件拘束には更なるナゾが2つあります。
- 初報において、マスコミ各社は拘束された日本人につき「情報機関員」と報じました(冒頭のNHK記事参照)。しかし、その可能性は限りなく薄いです。
- 先述のニュースにおける「国家公安委員会」のワードが不自然です。
1 情報機関員にまつわるナゾ
情報機関員は公務員、だったら何がおかしいの?
まず、拘束された日本人が「情報機関員」じゃなさそうという件について。
我が国における代表的な情報機関は次の通りです。
・内閣情報調査室
・警察庁(警備局)
・外務省(国際情報統括官組織)
・防衛省(自衛隊)
・法務省(公安調査庁)
日本のインテリジェンスコミュニティとされる合同情報会議のメンバーです。
内閣のインテリジェンス体制を第一に支えているのは、官邸直属の情報機関として、内閣の重要政策に関する情報の収集・集約・分析を行う内閣官房内閣情報調査室です。
内閣情報調査室を含む情報コミュニティ各省庁は、内閣の下に相互に緊密な連携を保ちつつ、情報収集・分析活動に当たっています。
内閣情報会議や合同情報会議では、情報コミュニティ各省庁が収集・分析した情報を集約し、内閣の立場から、総合的な評価、分析を行っています。
内閣情報会議は各省庁トップ(事務次官級)の会議で、図の官庁全てが参加メンバーです。
合同情報会議は実務責任者(局長級)の会議で、濃い色の官庁が参加メンバーです。
私はこの中の公安調査庁というお役所に勤めていました。
お役所勤めですから当然に「公務員」です。
つまり、
です。
拘束された日本人は「ゴメリ国立大の日本語教師」とニュースでは報じられています。
国立大学ですから当然にお給料をもらっているはずです。
「情報機関員=公務員」で「ゴメリ国立大の日本語教師」だと何が問題か。
公務員は許可をもらわない限り副業・兼業できません。
スパイと言えども公務員。
例外じゃありません。
身分について嘘を吐く場面はいくらでもあります。
しかし実在の会社に所属して……といったガチの身分偽装はほとんどできません。
給料や報酬が発生してしまうと懲戒処分になるからです。
かと言って「給料いらないから働かせてくれ」といっても怪しまれるのがオチです。
役所の許可をとれば副業できます。
しかし身分偽装を目的とした副業申請にまず許可はおりません。
もし不祥事に発展した場合に役所ぐるみと非難されるからです。
お役所は事なかれ、情報機関もその例外ではありません。
「スパイなんて法律の外の生き物だろ?」と思われるかもしれません。
「嘘だ!」「スパイがそんなわけあるか!」と思われるかもしれません。
私も情報機関に勤めた身でなければきっと相槌を打ちます。
だけど事実なんです。
「バレなければ何でもあり、バレても罰せられないなら何でもあり」。
これが情報機関員のぶっちゃけた本音です。
しかしバレる可能性高いのは副業で懲戒処分受けた公務員のニュースが珍しくない通り。
バレたら依願退職という名の実質クビですから公務員にとっては死刑に等しいです。
フィクションにおける身分偽装はリアリティあるけどリアルじゃありません。
もしリアルを突き詰めてしまったら創作できなくなるという例じゃないでしょうか。
もっとも、このナゾについてはベラルーシの特番に回答があります。
「国家公安委員会へ写真を渡すつもりだった」と言ってる時点で「私は情報機関員ではありません」と同義です。
情報機関員なら「○○の職員です」という表現を使うのが自然ですから。
「情報機関員」と「協力者」は違います
ただし日本人男性が「情報機関員」でないにしろ「協力者」の可能性は否定できません。
極端に言えば、漫画やゲームに出てくる「情報屋」がイメージしやすいかと。
もちろん情報屋みたいばかりなのじゃなく普通の人もいっぱいいます。
協力者は情報機関員ではありません。
ただの一般人で素人です。
スパイらしくなくて当たり前で、スパイの訓練なんて受けてません。
一般に、情報機関員は頭脳で協力者は手足とされます。
例えば、外務省キャリア職員のエリート様が残留孤児の子供だった民間人を中国へ行かせて情報収集してもらう。
(関係性のイメージを強調するためにわざと悪意ある表現を用いてます)
外国相手のスパイ活動はほぼこんな感じで行われます。
ちなみに先の例は、本当に外務省の協力者が中国当局に摘発された事件です。
1996年のできごと。
バレた外務省は知らぬ存ぜぬで協力者を切り捨てました。
事件について詳しくはこちらをお読みください。
拘束された人の体験談。
2016年に中国で日本人が拘束されてから現在も相次いでいます。
しかし今に始まったことじゃありません。
その20年前から同様の事案は発生していたということです。
ただマスコミがほとんど報じなかっただけにすぎません。
仮にもしどこかの機関の協力者であったとするなら。
情報機関員と協力者の間違いがあったところでベラルーシに文句は言えません。
大筋で日本のスパイには違いないのですから。
そもそも協力者の場合、自らがスパイと認識していないこともあります。
ベラルーシいるなら写真送って~、どんな国か知りたいんだ~
いいよ~、あちこち撮ってきてあげるね~
もし友人が身分隠した情報機関員だったり、あるいはその関係者だったなら。
これでスパイ行為は成立してしまいます。
実際にある、しかも理想的なスパイ工作手法です。
しかし本人が自覚していようとしていまいと。
相手国にとっては知ったことじゃない話です。
我が国と敵対しそうな国で生活する民間人や企業はくれぐれも御注意ください。
……と締め括りたいところなのですが。
拘束される基準とやらを、あえて相手国の目線にたって説明してみる
無理です。
素人の民間人や企業がどんなに注意したって避けきれるものではありません。
下手すれば情報機関員ですら無理です。
2016年に拘束された日本人を例にとります。
こちらは公安庁の協力者とされています。
記者クラブの会見レポートのリンクです。
同人の行為がどうしてスパイにあたるか。
あえて中国側の肩を持つ形で説明します。
鈴木氏は北京市内で2013年、在日中国大使館の元公使参事官から中朝関係を巡る情報を聞き、公安調査庁側に伝えたとしてスパイ罪に問われた。鈴木氏は、聞いた情報は報道で公開されている内容だったなどとして無罪を主張。だが中国当局は「新華社が報じていないことは秘密事項だ」と言い放ったという。
他記事によると、具体的には「北朝鮮の張成沢の処刑についてどう思うか」という内容です。
確かにそれ自体は報道されている公然情報です。
民間人の感覚ならたわいもない話と考えるでしょう。
しかし会話自体に意味がなくとも。
「誰が言ったか」「いつどこで言ったか」などで別の意味を持つ場合があります。
私は中国を担当したことないので適当に想像で書きますが。
中国が政府職員に秘密事項を話すのを禁じていたとします。
その基準が、中国当局の述べた通り、新華社が報じたかどうかだとします。
それなのに中国外交当局者が新華社の報じていないことについてコメントした。
言い換えると、
これが会話から得られる情報の意味です。
もちろん他の様々な要素を調べ上げた上での分析となりますが。
例えば「中国外務省内に統制の乱れが生じている」などと解釈しうるかもしれません。
あるいは会話の内容次第で「中国政府が非公式に送ってきたメッセージ」とも解釈しえます。
情報はそれ自体の内容のみならず、様々な意味を持ち得ます。
在職時に自分の入手した情報が分析によって「こんな意味を持つの!?」とびっくりしたことがあるくらい。
だからこそ、特に旧共産圏において、政府は情報を徹底的にコントロールするんです。
この手の事件で言われるのが、
拘束される側にとっては理不尽そのもの。
日本の、そして諜報なんて縁の無い世界で生きている限りにおいては相手国が非常識に映ります。
しかし相手国からすれば基準があるのかもしれません。
民間人には想像つかないくらい高いところに。
恥を忍んで言いましょう。
私すら退職後20年が経過した現在なら「張成沢の処刑なんて公然じゃん」と思っちゃいます。
もし鈴木氏と同じ立場なら、やっぱり話の繋ぎとして口にしかねません。
捕まったという結論を知っているので当時の感覚を思い出して考えることができただけです。
情報機関員経験者の私すらそうなのですから。
完全なる未経験の民間人にはなおのこと判断が難しいはずです。
それなのに注意しろというのは「現地で話すな、出歩くな」に等しいです。
あえて言うなら「日本の情報機関の人間が名刺出してきても突き返せ」でしょうか。
付き合ってしまえば自覚無しに利用されることもありますから。
一切の関係を持たなければその分だけリスクを減らせます。
一方、拘束された日本人の行動に問題が本当になかったのか。
ここでは書けませんが……以下略、なんてことも。
もしかしたらあったりするのかもしれません。
なお、中国政府の色んな都合で罪もないのに適当な理由ででっちあげている。
そうした可能性については今更私が書くまでもないので割愛しています。
本項目はあくまで相手国なりに基準があるとするなら、という話です。
2 国家公安委員会にまつわるナゾ
次に「国家公安委員会」のワードが不自然という件について。
国家公安委員会は警察庁を管理する内閣の外局。
国家公安委員会・警察庁・都道府県警察の関係は次の図の通りです。
図の通り、国家公安委員会と警察は厳密には異なります。
しかし一般的にはイコール警察と捉えてもそんなに問題ありません。
一昨年来から問題になっている旧統一教会と政治家の関係においても。
山谷えり子元国家公安委員会委員長が警察のトップ扱いでズブズブと批判されたくらいですし。
もし本人のコメントを額面通りに受け取るなら、日本人男性は警察の協力者ということになります。
ただそれはそれで大きな問題があります。
日本人が警察から情報収集の依頼を受けたとして。
あるいはもっと他のことを頼まれたとして。
「国家公安委員会に渡す」なんて言うでしょうか?
普通は「警察に渡す」だと思います。
日本人の感覚としての話ですから、日本語でなくロシア語で言ったとしても同じです。
ただ何とも言いがたいところもあります。
例えば本人がロシア語を間違えて使ったのかもしれません。
警察と言うつもりで国家公安委員会と言ってしまったとか。
あるいは本人が警察の公安を国家公安委員会と混同している可能性もあります。
組織名に公安がついてますから。
正しくは次の通りです。
ネット見ていて公安や諜報を正しく知っている人は少ないのが私の抱く実感。
勘違いしてしまうのはあながち不自然でもありません。
一方、ベラルーシ当局のシナリオに則っての可能性も確かにあります。
しかしKGBって警察と国家公安委員会の組織的な違いも知らないほどバカなんですか?
(KGB:ベラルーシ国家保安委員会。旧ソ連のKGBとは異なりますが後継組織です)
だとしたらKGBも落ちたものです。
私は放送を見たわけじゃありません。
真相は当事者じゃないとわかりません。
だとすれば情報機関員にとって決めつけは御法度。
どの可能性もありうるというスタンスに立たせていただきます。
3 デタラメに次ぐデタラメが呼び寄せるナゾ
日テレの指摘した翻訳のデタラメ。
情報機関員のデタラメ。
国家公安委員会のデタラメ。
何から何までデタラメばかり。
もうそのこと自体がナゾになってしまいます
デタラメばかりなのを真剣に考えてもしかたありません。
以下は私の根拠のない妄想としてお読みください。
根拠無く見たままを口にしていいなら、今回の拘束はベラルーシの描いた謀略劇だと思います。
その上で。
翻訳は明らかにデタラメです。
どんなに誤訳してもできないレベルで。
ベラルーシ当局が無能じゃないなら。
故意にそうしたと考えるのが自然です。
情報機関員や国家公安委員会はデタラメなのか単なる間違いなのか判然としません。
ただ情報機関員は捜査過程で情報が行き違うなどもありそうですし。
放送局にしてみれば情報機関員でも協力者でもスパイに変わりないというのもあるでしょう。
しかし国家公安委員会は日本人男性にデタラメを言わせた可能性が決して低くないと思います。
どこからどこまでがデタラメなのかは断定できません。
しかし少なくとも翻訳は10人が10人見てデタラメです。
ならばそこに意味が考えられないでしょうか?
つまりベラルーシ当局にとって、本当にスパイしてたかなんてどうでもいいんです。
デタラメだらけの特番で日本政府に送りつけたメッセージは以下じゃないでしょうか。
一目でデタラメとわかるがゆえ、逆に脅しとして通用するわけです。
ベラルーシにどれだけの邦人がいるのか知りませんが。
デタラメでいいなら、その全てがスパイ行為で逮捕される可能性があるのですから。
あるいはデタラメばかりの方が日本国内で盛り上がると考えたのかもしれません。
「ベラルーシって日本語できないの?」とバカにされた方が話題になりそうですし。
デタラメばかりなのを日テレや私みたくナゾと捉えれば、それはそれで謎解きミステリとして興味ひきそうですし。
どんな形でも目立てば、日本国民の中にも信じる人は出てきます。
日本政府を叩いた方がPVとれると考えるメディアだってあります。
とにかく話題さえなればプロパガンダとして成立します。
一部のネット民よろしく「悪名は無名にまさる」を地でいってるんじゃないでしょうか。
ただ私の経験的に、世間で何かあると思われたことの裏側は何もない方が普通です。
例えば10年前、内閣府の職員がゴムボートで変死して「北朝鮮や韓国のスパイ戦に巻き込まれた!?」と騒ぎになった事件がありました。
しかし真相はどうやら職員個人の痴話ゲンカの延長で起こった模様。
スパイ戦なんて全然関係ありませんでした。
今回もベラルーシ当局が無能とか本人の言い間違いとか。
その辺の何でもない結論で終わりそうな気はします。
まとめ
マスコミは政府に抜本的な対策をとれという。
しかし政府は何の対策をとればいいのでしょうか。
現実を見ずに理想的なことはいくらでも言えます。
抽象的なことも言えます。
しかし具体的かつ実効性のある手だては思いつきません。
あえて言うなら2つ考えられます。
1つ目はスパイ防止法の制定です。
日本の場合、拘束に対する報復手段を持たないのが一因なのは考えられます。
殴っても殴り返してこないならいくらでも殴れます。
結局は対抗手段を持つ以外に防衛する策はないんです。
スパイ防止法を口にすれば「壺」呼ばわりされるのかもしれません。
しかし私は旧統一教会と何ら関係ありません。
スパイ防止法の制定は諜報界隈に身を置く人なら誰でも思うこと。
一緒にされたくありません。
旧統一教会にかこつけてスパイ防止法制定に反対されるのは迷惑です。
2つ目は情報機関の創設です。
私は自らを元情報機関員と名乗りましたが、厳密には違います。
我が国に予算と手足を持って情報収集に純化した本格的な情報機関は存在しません。
警察庁・外務省・防衛省は政策も担当する時点で異なります。
自らの政策のため情報を曲げたり伝えなかったりすることも考えられるからです。
内閣情報調査室には手足がありませんし、実質的には警察庁と外務省です。
公安調査庁が一番近いのですが、色んな点で弱すぎます。
もっとも、作れるものならとっくに実現しています。
マスコミや世論の反対もさることながら。
省庁の主導権争いが難しく、話が持ち上がっても立ち消えになってしまいます。
ただ、以上の2つの方策が実現したとしても。
強固な防諜体制を有するアメリカすら中国に自国民が多数拘束されています。
日本人の拘束に限るなら、果たしてどこまでの実効性を有するものか。
少々怪しく思うのが隠さない本音です。
ないよりあった方がいいのは間違いないのですが。
国家の諜報システムについては、私も専門家を名乗って差し支えないはず。
その私にしてみても手だてが思いつかないのが実情です。
しかし私一人じゃ思いつかなくとも多くの人が意見を出し合えば思いつくかもしれません。
政府やこの状況を憂う人達が事件防止に動けること。
それは議論するための土壌作りだと考えます。
本稿で私の記した情報機関員と協力者の概念についてもそうですが。
世間ではスパイにまつわる正確な知識・認識が広まっていません。
こうしたニュースを理解するための前提であるにもかかわらずです。
警察庁でも外務省でも防衛省でも内調でも公安庁でもどこでもいい。
もちろん一緒にやってもいい。
広報がSNSで諜報の知識を広めて啓蒙する程度なら役所の壁を超えられるはずです。
スパイにしろ情報機関にしろ世間から見れば一種の裏世界。
今回のような生臭い事件は半ばタブー視されています。
週刊誌を除くマスコミは突っ込んだところまで報じない傾向にあります。
しかし日本人の拘束は今回のベラルーシだけではありません。
北朝鮮でも起こっています。
中国ではスパイ行為をしたとされる日本人の拘束が現在も次々続いています。
一部は本当に情報機関の協力者でしたからともかくですが。
誰でも何もしてなくても巻き込まれかねない時代になってます。
そろそろタブー感覚から脱出する時じゃないでしょうか。
現実を現実としてしっかり見据えて対処する。
これをもって結論とさせていただきます。